投稿していただいたOB諸氏


 

軌跡そして感謝 (梁池 隆)

yanati軌跡そして感謝 (昭和41年・機械科卒)

第7回の野球部OB会総会(平成28年4月)に初めて参加しました。
卒業以来、本当に久し振りに会った仲間達、皆、初老(?)の紳士であり、長年に亘り親交のある藤山君の紹介を受けなければ誰だか見当もつかない人もいて驚きの一日でした。普段は縁のない後輩達も何となく可愛らしく応援したくなる様な気持ちにさせられた一日でもありました。
 2ヶ月後に昭和41年卒と他2名(川崎氏、古沢氏)の参加で9名、OB会の分科会を開催しました。50年ぶりに会った友人(阿部君)を含め昔話に花が咲き、大いに飲み青春を取り戻した様な気がしたものです。
 高校の思い出と言うと、まず昭和39年、夏の長崎サバクと呼ばれた大渇水です。2日で3時間しか水は出ず、出ても真っ赤な水で、溜めて沈殿するまでは使えません。練習後に長崎大学の塀を乗り越えて井戸水で身体を洗うのが日課でした。
飲み水は、当時のスポーツではタブー視されていて、練習、試合の途中では飲めなかったのが不幸中の幸いでした。
 さて3年生の夏の大会での我が長崎工業高校野球部の新聞の評価はどうであったのかスクラップブックから拾ってみました。当時としては珍しい白地に緑色の文字、緑色のアンダーシャツ、ストッキングの出で立ちのチームは「ダークホース」「大型チーム(平均身長171.5cm))「小技はしない」「大型打線(1番から6番までは3割バッターが並ぶ)」まあ、こう言ったところでしょうか?
予算も応援団も少なく、今の名門高校の様に野球 ”命 „で明け暮れた訳でもなく、当時増えて来た竹バットにしびれながら、皆が好きな打撃中心の練習をして来たような気がします。当然と言えば当然の評価だったのでしょう。
 当時部長の尾藤先生や田口監督が時々開いてくれた焼肉パーティが効いたのか、それでもあれよあれよと言う間に勝ち進み、長崎26校で残ったのは長崎工業と海星の2校でした。西九州大会に進み、佐賀県代表校2校(武雄、佐賀商)と対戦し、惜しくも敗れはしましたが、今の様に一県一校なら甲子園出場も夢ではなかったかもしれません(愚痴?)他のメンバーもそうと思っていたのではないでしょうか?
 佐賀からの帰りの列車の中で先輩が差し入れてくれた丸ボーロの甘さを噛みしめながら窓に映る自分を見つめて”あ〜„これで終わったと何かホッとしたのを覚えています。
 後輩の皆さんに言いたい。今の皆さんは優れた指導者の下、洗練された技術を持ち、立派な専用グランド、後援会がありながらなぜ成績が残せないのか、自分自身に問い直し、そして果敢に挑戦して欲しいと思います。野球を通じた私の3年間は本当に充実したものでした。 今の人生に導いてくれた3年間でもありました。
当時のメンバーには本当に感謝していますし、此れからも、このつき合いが”ず„〜っと続くことを願っています。
OB会の役員の皆様、山内君これからも宜しくお願いします。

※梁池 隆さんは強打、強肩の捕手、右打でバットを構えるときの握り方に特徴があった右手と左手の間を空かせての構えで打撃していた。熊本の鹿本工業からの転校生でしたが、田口監督が熊本工業の4番が転校してくると紹介したものだからみんな凄い奴が来たとざわついた思い出が残っています。

長工野球の思い出(早瀬健吾)

hayase112

長工野球部の思い出・・・・
                 昭和43年・工業化学科卒 
 私たちの時代は試合に勝ったり負けたりでいまひとつ良い結果を残せませんでした。 たから、あの時何々の試合で何処に勝ったなあ・・・とかよりも、毎日の練習の時の事が強い思い出として残っています。 なかでも夏休みの猛暑の中で先輩達と一緒に、田口監督の巧妙なノックを受け ヘトヘトになるまで走らされたこと。
また冬休みは平和公園まで走り、公園の階段をダッシュ! そして一回だけだったと思うが岩屋山の山頂付近の坂道ダッシュ!・・・等々今、思えば草野球しか経験がなかった自分にとっては本当に厳しいものでした。 (それなのに野球の技量があまり上達しなかったのは自分の努力が足りなかったのか・・・・? もうちょっと熱心にやっとけば・・・と今思う・・・) また、夏休みの暑い日には時々、田口監督特製の黒砂糖入り氷水がふるまわれていました。 その買い物に同僚と二人で、氷は近くの氷屋さんへ、黒砂糖は歩いて10分ほどの電車通りのマルタマストアーまで・・・何故か靴に履き替えないでスパイクのままで行ったことも・・・!当然に真夏のアス ファルトには見事にスパイクの歯型がクッキリ!・・・・何処かのオッサンに大目玉をくらった! そして氷水の入ったばケツの中に黒砂糖をぶち込み美味しい黒砂糖水の出来上がり。監督の配慮で 何故か有難く一年生が先でその後に先輩達が飲んでいた (今、考えると後で飲んだ方が黒砂糖が底に沈んんでいて美味しいのを飲めたと思うのだが・・・) また、練習が終えてトンボかけして部室に行くと先輩達が汗臭いストッキングを脱いでいる。部室が狭いので先輩達が終わるのを待っていると、足を洗った先輩と目が合った時など「オーイ!チョット・・・」 と声がかかる・・・洗い場から部室までおんぶする訳です F先輩とかT先輩は体がデカかったので大変でした。 野球部での3年間、監督や先輩達の日々の熱心なご指導と厳しい練習やしつけは社会人になってから、自分の励みになりました。 部長、監督、先輩達皆さんに感謝いたします。

※早瀬さんは時津中学出身、2年先輩に藤山 徹がいた。
当時の学校は家野町(現文教町)、マルタマストア住吉店は当時の場所に現在もある。 F先輩、T先輩は誰でしょう?  

 

練習環境に勝る恩師の熱意(金丸 裕)

kanamaru

家野町校舎時代:練習環境に勝る恩師の熱意・・・・
                     昭和41年・機械科卒 
 今日の練習環境は専用グランドがあり、マシンがあり、アドバイスを受けるコーチにも恵まれているなど昭和年代とは大きく進化しています。家野町校舎時代のグランドは私達野球部のほかにラグビー部やサッカー部との共用だったと思いますが、外野を守っていると目の前をラグビー部がパスをしながら横切り、サッカーボールがミスキックで飛んでくるのは当たり前のことでした。そんな環境の下、まずまずの戦績を残せたのは故人となられた田口監督、尾藤部長が(実技的な指導力は別として)熱意を以って取り組まれていたからではなかったかと思います。先に誰かが記述されていましたが、外野ノックなどは飛距離が出ないものですから予め私たちが定位置からかなり前の方に守ったことが思い出されます。 伸びのあるライナー性の飛球などは希なことで若干物足りなさを感じるノックではありましたが、しかしそんな実技的なものを超越した両先生の取り組む姿勢・熱意は妙に体感的に私達にも伝わってきて無意識のうちに懸命に向き合ったことが試合に生かされたものと思います。  
 またコーチ不在で技術的な知識にも疎い生徒の身にあってたまたま練習を見に来てくれた先輩からバッティングへのアドバイスを受けたのが印象深く、ありがたかった。その後においての私の成績にもつながったことに感謝しています。  
今の長工野球部は恵まれた練習環境にあります。 
生徒の皆さんの努力や心構え次第で必ずや好成績につながるものと確信しています。

“甲子園目指して頑張れ! 長工野球部。”

※金丸 裕さんは奈良尾出身_俊足で強打者(100m11秒3)の1番バッターで中堅手、39年秋九州大会、40年春九州大会、40年夏は長工初の西九州大会へ出場に貢献した。 奈良尾クラブの監督兼選手で長崎県下軟式野球大会でも活躍した。(上右写真は第37回長崎県下軟式野球選手権大会(昭和53年)対大瀬戸クラブ戦での決勝ホームラン_新聞記事より)
※詳しくは野球部の沿革参照

 

一OBの独り言(吉田義輝)

yosida

一OBの独り言
                  昭和44年・電気科 卒業 
白球を追い続けた3年間から、早や50年近く経とうとしている。 毎年夏になると思い出す。3年生最後の夏の試合、まさか一試合で終わろうとは思いもしなかったが・・・・。 その試合は投手戦(貧打戦?)が続き、9回表に先制のホームベースを踏んだ時は正直勝ったと思った。そして翌日の新聞見出しも頭をよぎった(長工接戦を制す?)そんな横着者に神様は背を向けた。9回裏2点を取られてサヨナラ負け。頭の中真っ白。「終わったなー」外野からゲーム終了の整列までがやけに遠い。空もやけに青かった。野球も知らない亡き母が初応援で微笑んでいた。対戦相手の西海学園、今になっても相手バッテリーの名前が頭にあるのはなぜだろうか? この悔しい敗戦をバネにした後輩達6人は翌年開催される長崎国体へと進む。私は最初に就職した県外の地で後輩達の快進撃に胸躍らせたものです
 さて話変わって今夏は息子の案内で憧れの甲子園に行ってきました。親父が元気なうちにと思ったのだろうが、私としては母校が出場するまで元気でいるつもりだが・・・甲子園は確かにひと味違っていた。まさに高校球児が目指すべきところ。あのレベルの高さは寝るのも勉強も惜しんで練習に打ち込んでいるのだろうか? 現役球児に思う勉学との両立に精進しつつ「その一投、その一打、その一歩」に集中し頑張って欲しい。
3年間の努力は社会人生活で必ず活かされます。

“長工健児の健闘を祈る”

※吉田さんの44年卒組は国体の強化校に指定されたため2年生主体のチーム編成が取られその犠牲になったとも言われています。(笑)ちなみに一つ下の年代は九州大会に出場し準決勝まで進んで小倉工業に敗退、夏は長崎県代表として西九州大会まで進んでいる。三菱重工長崎で勤務しながら長崎市野球連盟登録の飽の浦カトリックチームで長期に亘って監督兼選手として活躍した。(同期の森山義明_三菱重工長崎、佐藤 始_JR九州も同チームに所属)
詳しくは野球部の沿革参照

長工野球の思い出(原口 修)

haragutileftclick large

長工野球の思いで
                  昭和40年・電気科 卒業 
私の子供の頃は、西鉄ライオンズの全盛時代でした。 あの頃は、テレビは無くてラジオで大下、中西、豊田、稲尾などそうそうたるメンバーで飛ぶ鳥を落とす勢いの試合を聞いて興奮してました。 その影響で野球少年になっていました。小学校では、三角ベースで、中学校では、軟式野球で汗を流しました。 高校に進学するとき、家の近くに大村工業高校が新設されることになり、そこに進学するつもりでした。ところが新設高校なので野球部がありません。 親に無理を言って長崎工業高校に行かせてもらいました。 最初は、大村からの通学をしながらの野球部は無理なので、学校の寮に入りました。 その頃の長工野球部はその頃はあまり強くなかったと思います。しかし、練習は、厳しく学校の裏の坂を何回も走らされました。名前は忘れましたが、その頃の主将の方が厳しい人でした。そのお陰で足腰が強くなったと思います。
その頃のメンバーは
1、倉本 2、川崎 3、阿部 4、原口 5、瀬戸口 6、山内、7、藤山 8、堀川9、小田原、本村、松村、川口、簗地、山道(新聞の切り抜きです)
倉本主将のリーダシップと前年からの猛練習で県大会で勝てるようになりました。2年の秋に県大会で優勝して九州大会で鹿児島に行きました。しかし、鹿児島商に大敗しました。3年の春も県大会で好成績で九州大会に出ることができました。しかし、熊工に惜敗しました。
卒業後野球のお陰で、東レに入社でき、5年間企業の中で野球生活を送りました。 まさに小生の人生の中で野球の影響はかなり大きなものです。

野球をやって良かったこと。
1.素晴らしい仲間と一つの目的に向かって頑張ること。(人脈が広がる)
2.先輩、後輩のけじめをつけること。(上下関係の大切さを学んだ)
3.練習の苦しみを乗り越えることができたこと。(仕事上で壁にあたった時に乗り越えられる)

今は定年後の年金生活です。でも、相変わらず千葉マリンスタジアムや東京ドームに観戦に行っています。 現役選手の方はあの頃とは、チーム数も違うし大変でしょうが頑張ってください。

※原口先輩は大村出身で本原町にあった寮生活を3年間経験。
3年生の森投手の投球練習が50球ぐらいと超短く(多分?)、反面2年生の原口投手はと言えばウオームアップだけでも200球近く投げていたような気がします。(多分?)とにかく練習熱心でした。

いつの間にか歳食った あるOBの昔話その1(匿名希望)

いつの間にか歳食ったあるOBの昔話
                              昭和43年工業化学科卒
ホームページの編集長より先日、当時の野球部時代の思い出話が何かないかと言うことでリクエストがございましたので、面白—い出来事がないかといろいろ思いめぐらしましたがなかなか出てきません。卒業して半世紀近くにもなるので記憶も飛びつつあるようです。当時新一年生で入ったら、工業はとても強い高校野球のチームの一つでした。当然練習も厳しく、日々のクラブ活動においては、K先輩が教育係?だったようで、よーく シゴかれましたー。さぼったり、声が小さかったり、隠れて水を飲むと「うさぎ跳び」をよくさせられました。またある時は宿題で家にボールを持ちかえされてのボール縫いもありました。検査で縫い目が山になっていると「ハーイ 誰々はやり直—し!」でした。バッテン、そんぎゃんゆーたって・・・皮が延びきってダゴンごとなっとっとに無理たい!と、内心は思とっても言えませんでした。お陰さまでで根性が?ついたのかも知れません。十年ほどの県外生活の後、ちょっとした期間をおいて、ある高校のグランド横で自営業をずーっとやっています。
今から十数年前は、ここでもネットを越えてファウルボールが飛んでくると、間もなくしてぞろぞろ二三人がやって来て礼儀正しく頭を下げ持って帰っていたものでした。しかしここ五六年はまったく来なくなりました。これも時代の流れか、または部費が裕福なのか解りませんが確かに変わりました。
それである時リトルリーグの父兄の知人が来たので溜まったボールは差し上げました・・
そんなこんなで昔を思う時、最近の子供達はマ・コ・トに恵まれているなーと感じる団塊世代OBの独り言でしたー。以上

いつの間にか歳食った あるOBの昔話その2(匿名希望)
話は昭和40年代のことでございます。T監督はどうもノックが得意でなかったようで、こんなことがちょくちょくありました。ひと回りノックが終了し、最後はキャッチャーですよねー。そのフライがあさっての方向へ飛んだり、空振りしたりするんです。挙げ句の果ては手で投げ上げたり、すました顔してその辺に転がせていました。それをバッネット裏で見ていて大笑いしたB部長!
ある時T監督が不在の日がありました。左利きの部長が珍しく張り切ってノックをはじめました・・・もっとヘタでした(笑)
 またある日の出来事で当時は隣接する場所にテニスコートがありました。誰ーもおらんけんスパイクば履いたままふざけて遊んでいたら担当のM先生に見つかりこっぴどく怒られて、隅っこに置いとった直径40cmぐらいの転がりの悪か重たかローラーで整地ばさせられましたあー、あと二人身に覚えのある奴がおるはずばってん誰やったかなー?いずれにしても今思うと懐かしい出来事でしょうか

※編集者の私には誰だか解りますが匿名希望と書いてありますので尊重したいと思いそのままにしておきます。そして本文中のK先輩、T監督、B部長も然り
長工野球の思いで(藤山 徹)

fuziyama_photo長工野球の思い出
                       41年工業化学科卒

昭和40年第47回全国高校野球選手権大会県大会が7月19日熱戦の幕をあけた。 2日目佐世保南との試合、1回2死、走者3塁のとき 1−3後大会第一号のホームランが左翼席中段に飛び込んだ。今もこの感動は脳裏に残っています。私にとって青春最高の1頁でもあった。 苦しくないと言えば嘘になるけど、楽しい日々でした。一緒に甲子園をめざし練習に 励んだ先輩、後輩、また同僚の皆さんとの想い出に感謝いたします。  
 ふと後ろを振り返ると古希の二文字がすぐそこに・・・ まだまだ、筋肉痛に悩まされながらもソフトボールで余生を楽しんでいます。
 いよいよ球児にとっては、最高のそして最後のステージが始 まります。一球に一打にかけ青春の賛歌をつづってください。栄冠は君に輝く!

※時津中学出身 遊撃手、細身の体で強肩、長打力あり。長崎記念病院でファーストピッチソフボールのエースとして活躍した。67歳の今も現役 長工時代は1番遊撃手で活躍、39年秋九州大会、40年春九州大会、夏は長工初の西九州大会へ出場した(夏の県大会1回戦佐世保南戦では左中間のホームランは記憶に残る。) 野球部の沿革—昭和32年から41年(昭和39年、40年参照)
我が球歴(堀川隆夫)

horikawa我が球歴
                      昭和40年造船科卒

長工野球部OBとして、後輩選手の参考になればと思い筆を執ることにしました。
小生が正式な野球を始めたのは長工野球部に入部してからで、興味一杯の素人でした。 1年生から2年生の夏までは先輩のサポ-ト、球拾いに明け暮れた日でしたね。

新チ-ムが結成される前、正捕手になると思われたT君が退部し急遽、バッティングキャチャーをやっていた数名の中から比較的、肩が強かった小生が一塁手からコンバ-トされ、正式に捕手をやることになった。叔父が野球の経験者だったことから捕手の心構え、練習方法等をアドバイスして貰いながら練習に取り組んだ。
2年生の秋から新チ-ムが結成され我々が主体となって強いチ-ムへと変身していった。
何故、我々の時に強くなっていったのか記憶を呼び戻してみたい。
まず、倉本主将を中心にチ-ムワ-クが良かったし体罰もなくまとまって良く練習した。
次に投手陣は原口、本村、山内と3枚揃い、内野陣は守備が固く、外野陣は小粒であったが無難で総じてまとまっていた。素人捕手も盗塁阻止のため正確で早いスロ-イングにと心がけ、チ-ムは守備が固いチ-ムになっていった。

そして新人戦や九州大会長崎県予選を勝ち進みチ-ムとして自信をつけた事が大きかった。今、思うに奇跡的な感じであったが県予選で優勝し、九州大会に出場した。しかし新チ-ム唯一の大敗(長工1対8鹿児島商)を喫す。桜島が爆発し相手に撃破されチ-ムが悔しい思いを経験した。これを機に更に練習に励む。春の九州大会長崎県予選は準優勝し長崎県主催の春の大会に海星と2校出場し熊本工に1対3で惜敗。
 高校生活最後となる夏の甲子園出場を目指して予選が始まり、連戦連勝で決勝に進出。
海星に0対2で惜敗し夢破れ全て終わった?。守備の人であった小生は夏の予選では11打数5安打と変身。亡くなった父親と妹に3塁打を見て貰った事が思い出深い。

 これで野球と縁が切れると思いきや、就職内定先の会社から希望(長崎)とは違った広島勤務を命じられ且つ社会人野球をやれとの連絡があり、野球を続けることになった。
社会人野球は5年間経験したが最初の3年間はブルペン捕手の下積時代。当時は週休1日で定時まで仕事して午後5時頃から暗くなるまで練習し日曜日は朝から夕方まで練習の繰り返しであった。捕手も5人いてレギュラ-の座は遠い道のりであった。社会人野球のレベルは高く、体重も60Kg程度しかなかった小生の打球は外野手の頭を越すことはなかった。チ-ム内の紅白試合でも捕手はやらしてもらえず、外野を守った我慢の時代。 ただ、密に磨きをかけていたのがスロ-イング。沢山の投手の球を受け、最後に投手の方に本塁と二塁の距離程離れて頂き、スロ-イングの練習を根気よく続けた。 先輩のレギュラ-捕手の方は打力はあったが弱肩であったので無駄な失点で敗戦に追い込まれる事もあった。いつか自分がレギュラ-にと努力を続け、4年目についに実現し、チ-ムが成績を残せるようになった。新日鉄広畑が黒獅子旗を獲得(全国制覇)した翌年、広畑へ遠征し5個の盗塁を阻止、3個成功されチ-ムは敗れたが強いチ-ムは積極的だなと感じたものでした。全国選抜社会人野球岡山大会では日鉱日立と対戦し劣勢といわれた三菱はエ-スの好投もあったが前半、日鉱が試みた3回の盗塁をきれいなスロ-イングで刺した堀川の強肩が光っていたと新聞記事に載りました。また都市対抗県予選の準決勝では国鉄中国に5対3で勝ち、3打数2安打(2塁打1)と好打者に変身?4点目のタイムリ-打の写真入りの新聞記事に載りました(2度目で最後) 自分の野球人生の宝としてこの記事の切り抜きを大事にしています。
  社会人野球は5年間経験しました。仕事が多忙になり造船技術者として早く一人前にならなくてはという夢もあり、円満に退部させてもらいました。その後10年程経過し、三菱広島は都市対抗初出場を果たし初出場初優勝の快挙を達成し大喜びしたものでした。

 さて野球の技術論は次回投稿するとしてひとつだけ盗塁阻止の秘訣を記述します。
最初は相手ベンチのサインを盗む事から始まります。サインを盗むのはコツがあります。相手ベンチを直視せず投手方向を見てマスク越しに横目で相手監督のサインを盗むのです。(無警戒のフリが横目なのです)直視したら相手監督はサインは出しません。盗んだら心構えが出来、慌てなくてすみます。次にウェストのサインを投手に送り捕手が素早く送球出来る高さに投げさせ、2塁ベ-スのタッチし易いゾ-ンへ送球すればピンチが防げるのです。やみくもにウェストはさせません。(サインを確実に盗むのです)
工業高校生らしく頭を使って野球をしましょう。体力だけでは勝ち続ける事は出来ません。
 OBからの後輩の皆さんへのアドバイスとしては負けて悔しさを勝って喜びを感じとって 更に夢(甲子園)を目指して勝ち続けるために何を成すべきか真剣に追及して欲しいのです。グランウンドの練習以外に自分の欠点を改善、強化するため努力すべきです。
自転車通学して足腰を鍛えるとか、試験勉強中に眠たくなったら夜中の素振りで眠気を覚まし下がった成績を戻すとか文武両立させるべく頑張って欲しいと思います。

今回は精神論的ではありましたが小生の体験の中から将来に向かって元気を感じて貰えれば幸です。次回は又お会いしましょう。
第2回技術論第1回(打撃基礎編)jpeg

堀川先輩貴重な体験談ありがとうございました。長工時代だぶだぶのプロテクターで(40年当時は満足な道具は少なかった)一生懸命スローイングの練習をしていた当時が思い出されます。次回は技術論の投稿もぜひお願いします
野球部の沿革参照

第2回投稿/打撃基礎編(堀川隆夫)

zu1左図clik large

第1章 球をバットの芯で捉える
1.バットとボ-ルの関係  

バットの断面(円)とボ-ルの断面は円であり更に球体である。バットの芯は1個所。 球芯をバットの芯で捉えることが重要である。(いうなれば点と点を一致させ反発力を最大化させる) 以上にベ-ス板を通過する球のコ-スとバットの芯が一致する図を示す。(右打者のケ-ス) 打者は体幹をしっかりと泳がず、反り返らずバットの旋回中心を出来るだけ移動させないことが肝要である。 ベ-スに向かって来る矢印は投手の球筋を表す。バットの芯で捉えて飛び出していく矢印は打者のスイングスピ-ドが球威に 負けない前提で、入射角と反射角は、等しいという物理の関係から、外角球は右翼方向に、真ん中の球はセンタ-中心からやや 左中間へ、内角球は左翼方向からファ-ルとなる。(内角球の打ち方は難しく制球力あれば内角を攻める事が重要。本件は守備編で後述) 上図はあくまでバットの芯がボ-ルの芯を捉えた関係である。 スイングスピ-ドが遅いとバットの根っこにあたりどん詰まりとなる。 上図は平面的な考え方であり、次に立体的な、球の捉え方を記述する。
zu22.立体的ストライクゾ-ンとの関係
打者は上下、左右の立体的ストライクゾ-ンを見極め、投手のストライクに見えるボ-ル球に手を出さないこと。(選球眼は絶対に大事である) 左図は左右上手投げ投手の球筋を直線的に図式化したものですが変化球もあり、最近のはやりのフォ-ク、スプリット、カットボ-ルもあり、更に横手投げ、下手投げを勘案すると球筋の組み合わせは、莫大なものとなります。球威のある投手や制球力のある投手から連打を奪うのは至難の技です。3割打者でも3回に1本しか打たないのですが守備力のない草野球のチ-ムでは四球、エラ-、盗塁を絡ませられ、大量点を与え、相手になめられる事態になります。 今回は打撃編なので打撃力が向上するためにどのように練習するか!
1)コ-ス、高さ、変化を想定し素振りを毎日200から300本は振ること。(手のひら、指が豆を通り越しタコになるまで)
2)スイングスピ-ドをつけることで球をひきつけ球を芯で捉えられることが可能となる。
3)腕だけの腕力にたよらず下半身、腰も合わせて球を芯で捉えることが重要。捉えるインパクトが最大となるようスイングすること。
4)得点圏に走者がいることを想定し、最低でも走者を進める。或いは外野飛球を打つと想定することが肝心。
5)投手の球威に負けないスイングスピ-ドがないとボ-ルは前に飛びません。物理の運動力学を理解すれば素振りに手を抜けないよ。
  今回2回目の投稿は打撃基礎編です。まず、個々の能力をアップすることからはじめましょう。次回以降は打撃応用編、バッテリ-編、・・・・・・その他編の予定です。

※堀川先輩ありがとうございます

思い出(本村広喜)

本村さん思い出
                    昭和40年木材工芸科卒

この1枚の写真 私の人生の中で自慢の宝物です。
高校野球時代を思い出すと毎日が練習に明け暮れ彼女も作れず?ただ甲子園と言う目標を目指し最終バスで通学していたものです。
途中では成績も下がり親も呼び出され練習もつらく退部も考えたね。夏の練習は水も飲まさしてもらえず汗を流し、声も枯れ、フラフラになって皆頑張ったものです。
でも努力はむくわれ九州大会連続出場と言う素晴らしい思い出を作れました。 チーム全員で勝ち取った優勝旗!(写真)これ以上の感動と喜びはありません。
この体験は私の長い人生の中でどんな時も決して負けることのないへこたれない精神を作ることができ幾多の苦難も乗り越えて今日にいたりました。
高校野球部時代に感謝、同僚に感謝です!!!

motomuraarrowclick large

※本村先輩はリリーフ投手から3年生の夏ではエースに成長、代表決定戦では海星 (春の九州大会で準優勝した) を2点に抑えたが打線の援護なく敗戦。写真右端が本村先輩(2年生)3年生の送別記念写真 野母崎から家野町まで通学 
野球部の沿革参照 

赤トンボ(今村(神埼)圭一)

imamura

赤とんぼ
                     昭和41年機械科卒  

夏の高校野球選手権大会が佳境にに入ってくる 七月中旬頃になると、長崎市営大橋球場には赤トンボが飛び交います。一塁から二塁の後には勝負の厳しさとは関係なく、のんびりと遊ぶ赤トンボに心が癒やされました。 球場の横を流れる浦上川から飛んで来たのでしょうが、炎天下の陽射しの下で審判員として、心身ともに疲れている俺にとって、目で追う赤トンボは一服の清涼剤でありました。
 月日が過ぎて県営球場(Big N)になっても赤トンボはやってきました。天然芝が人工芝に変わっても赤トンボの遊び場はかわらなかったのです。激戦が続く球児達にも赤トンボの姿はのこっているかもしれません。

※今村(神崎)は捕手兼務の名マネージャー。県庁野球部、また高校野球審判員として41年間勤める。長崎県審判協会より平成15年に10年以上表彰、平成19年には朝日文化球育賞を受けている。 (長工野球部出身の審判員は彼一人でした)
工業時代の野球の思い出(渡邊 潤)

h8watanabe

「工業時代の野球の思い出」
                      平成8年造船科卒業

工業時代の野球の思い出というと、試合に勝ったという喜びもより も怪我をしたことや夏合宿など苦しかったことの方が先に思い出され ます。 肩を痛めた私の為に北村監督自らが運転して治療に連れて行ってくれたり、勉強会等にも参加させて頂きました。
3年生の最後の夏の大会は残念ながら一回戦で敗れてしまいましたが、 痛みがなく最後までマウンドに立つことができたことは一番の喜びで もあり自信にもなりました。当時支えてくれた監督、コーチ、チームの仲間には未だに感謝してますし、この恩は一生忘れることはありません。
現在は自分自身が治療家として仕事をしていますが、私が監督さんにお世話になったように今度は後輩である野球部の選手達の応援団として微力ではありますが力になりたいと思っています。

※渡邊さんはアトラスナチュラルセラピー長崎(整体カイロプラクティック)を時津町で開院さ れています。 ※ 詳しくは渡邊さんのホームページ(http://atlas-nagasaki.net/) プログ(http://ameblo.jp/atlas369/)をご覧下さい
私と野球(田中隆通)

田中隆通

<私と野球>
                      昭和46年電子工学科卒

私のとっての野球、それも高校野球時代は、現在の私の礎となっていると確信している。 野球のプレーは20代前半で終わってしまったが、社会人となって44年が過ぎ、礼節、我慢する精神力などは間違いなく長工の野球部時代に培ったものである。
今でも残っている思い出は、私が2年生の時に開催された長崎国体の強化指定校になり、県内は元より西日本各地に遠征して、各県の強豪校と練習試合を多くしたことである。それまでの人生では県外に出ることも稀で、苦しい練習ではあったが、今となっては楽しい記憶に変わっている。また、良き指導者、先輩、同期、後輩に恵まれていて感謝している。 私は21歳の時に長崎を離れ、神戸、今治、高知、札幌、東京、広島と会社の転勤で渡り歩き、現在は家族を広島に残し東京で単身生活をおくっている。その遠く離れたところから長崎の高校野球界を見続けてきたが、我々の時代と違って全国レベルの差がなくなり、長崎県代表もしばしば甲子園で活躍する姿を見て喜んでいる。
その甲子園に我が母校の長工の姿を早く見たいと祈念しているので、昨年から出席している野球部OB会の末席の役割として微力ではあるが少しでも貢献したいと思っている。
広島に居て長崎に縁がある理由で、プロ野球はカープ(今村、大瀬良)、J1はサンフレッチェ(森保監督)のファンである。 なお、私の野球部時代のニックネームの“デンスケ”は、当時の田口監督が教えてくれたトランプゲームの“デンスケ”に滅法強かったことから名づけられた。
“ブレークスルーで長工を甲子園に!”

※田中さんには東京支部長をお願いしている
現在東京計器計器カスタマーサービス株式会社取締役社長
卒業してから半世紀(森 信二郎)

39_mori卒業してから半世紀

                     昭和39年建築科卒
学校を出てから早50年が経過。 70歳になろうとしている今もまだ野球をしている。子供や孫からは「野球バカ」 と言われながらも、、、
工業に入学して野球部員募集で集まった新入生は総勢70名ほど 中学時代は主将、4番打者、ピッチャー等すごい肩書きの者も多い、それに比べ私 は長崎市の中体連で4番は打ったが1塁手で主将ではない。この大人数の中で残って最後まで野球をやれるか不安だった。 しかし練習が始まって1週間、1ヶ月を過ぎるといつの間にか半数以下に減っていた。毎日、毎日隣接の長崎大学との仕切りブロック塀の外で声出してファールボ ールを探すのが日課だから面白くない、やめていくのも当然だった。1塁側に飛べばバレー部、テニス部から怒鳴られる。狭いグランドで野球、サッカー、ラグビー 等同時に練習するのだから、事故が起きないのが不思議だった。 それに比べると専用グランドでのびのびと練習ができる現在の環境は羨ましい 限りだ。3年生が去り8月に入ったある日、南山高校との練習試合に負けての帰り道、山口先生(監督)に「森君、ピッチャーはどうか?」と尋ねられ、私は即座に 「はい、やります」と答えた。それから私の長く、苦しく、楽しい投手人生が始ま った。毎日、毎日最初に打撃練習、その後はダッシュ、ピッチングの繰り返し・・・ 走るのが一番苦手な私には地獄の毎日だった。しかしその努力が報われる日が来た、8月の新人戦で一死満塁でのリリーフが投手としてのデビューだった。その場を無得点で切り抜けた自信がその後の試合につ ながり、現在に至っている。あと10年80歳まで野球が出来れば最高の人生だと 思う。

後輩の皆さん、大いに野球人生を楽しみましょう!

※ 森さんはOB会の名誉会長。卒業後は地場大手大長崎建設のエースとして長崎県の軟式野球で活躍、現在も長崎県生涯野球協会グラバーズ古希の部、現役投手、4番打者 として頑張っている。

戦後の長工野球部(高瀬助松)

takase戦後の長工野球部
                      昭和24年工業化学卒
学校は原爆の関係で長崎より大村市へ移転、他の中学より後れて野球部ができました。
軍隊の養成所があった所で、広い荒れたグランドでした。野球をやるための整備に 時間がかかり大変な苦労をしました。
部員のほとんどが長崎に住んでいるため、汽車通学で2時間もかかるので練習する時間が無い、そのため他の中学に負けないように夕方遅くまで練習を頑張りました。
その結果昭和23年夏の第29回全国大会長崎大会に出場、初出場でしたが他の中学を問題とせずに優勝しました。
長崎代表として北九州大会(福岡県4校、佐賀 県2校、長崎県2校)に出場。福岡県香椎球場での1回戦は福岡工業と対戦し、4 対2で勝利しましたが、2回戦は佐賀代表に負けました。この大会では福岡県代表 の小倉中学が優勝、甲子園の全国大会でも優勝し、初めて九州へ優勝旗を持ち帰り ました。
またこの年の秋から九州大会が始まり、長工も長崎代表として出場しましたが鹿児島に0−5で敗退、ちなみに優勝校は小倉中学でした。
当時のエースとして頑張った山口幹夫君は卒業と同時に西鉄ライオンズに入団、 長工から初めてのプロ野球選手となりました。
最後にぜひ甲子園に長工出場を期待しています。

※ 当時は中学(学制改革により長崎工業高校)長工野球部の第1期黄金時代
※詳しくは 野球部の沿革もご参照ください 1947(昭和 22 年)-1956(昭和 31 年)対戦成績


 





 

このページのTOPに戻る